2026.7.9

日々の着物日記

子どもの目に映る「着物がある風景」

浴衣姿の子どもが花を見ている後ろ姿

子どもは、素直で正直。その言葉や反応の1つひとつが、とてもおもしろくて愛おしい。

今回は、子どもの「言葉」から着物のことを考えてみた。

よくある子どもとのやり取り

子どもの行事や送迎で、幼稚園や学校に行くとき、なるべく着物(浴衣も含む)で行くようにしている。

「なにがなんでも、着たい!」
ではなくて、その日の仕事や用事の兼ね合いや、立場などの状況で、着られるときは着る。という感じ。

「動きやすい服で」という指定があったり、運動会や活動・作業などをしたりする日は、もちろん着ない。

我が子が「着物は嫌だ」と言うときも、着ない。(そう言われたことは1度もないけれど。)

着物で行くと、ほぼ確実に
「なんで、そんな服 着てるの?」
と どの子かには言われる。

私の答えは
「好きやからやで。好きな服着てたら、うれしくなるやん♬」

食いついてくる子は、さらに
「なんで好きなの?」とか「どこが好きなの?」とか
聞いてくる。子どもってほんとにおもしろい。

「模様がかわいいし、着てたら楽しくなるんよ。」
そう伝えると
ふうん・・・という感じで、着物をじーっと見つめる子もいる。

かわいいー!!と、興味を示す子もいれば、わけがわからない。という顔をする子も。
その反応1つひとつに、かわいいなぁと思ってしまう。

今の着物の存在感

私が、幼稚園や小学校に着物を着ていくのには、わけがある。

着物の「かわいさ」や「うつくしさ」に共感してもらいたいわけではなく
目立ちたいわけでもない。

洋服を選ぶのが苦手、というか、着物を選ぶ方がどちらかというと楽だから、というのは、ちょっとある。

私自身に着物を着る機会をつくりたい、というのも、ある。

でも、1番の理由は、「子どもたちに着物ってものを身近に感じてほしい。」ということ。

子どもたちが かけてくれる言葉の中で、おおっ!と感じたのが
「それ、お祭りのときに着る服だよね?なんで着てるの?」

たしかに!子どもの目から見たら、着物も浴衣も大差ない。袖がひらひら長くて、帯を巻いてるのは、「夏祭りに着る浴衣」。

それを学校に着て来てたら、そりゃ「なんで?」って思うよね。

今の生活の中で、子どもがよく目にする場面で、かろうじて残ってる着物が「お祭りの時の浴衣」なんやなぁ・・・と、ちょっと切なくなった。

もう1つ、刺さった言葉が
「それ、時代劇の中に出てくる服や!おじいちゃんのところでテレビで見た!」

おお・・・・もう、テレビの中の世界。しかも、おじいちゃんの家で。

もう、子ども自身の生活の中にすら、着物はないんやな。

その子にとって、私は「テレビの中の人」(しかも昔の人)だったんだと思うと、笑いがこみ上げてきてしまった。

なんだか異文化交流しているみたいな気持ち。

今の着物の存在感って、もしかしたら海外の文化よりも遠い存在なのかもしれない。

私が子どもだった頃

ちょっと切ない気持ちになってしまったけれど、私自身の子どもの頃を思い出してみても、着物はもう 遠い世界の服だった。

曾祖母の箪笥には着物が入っていたけれど、それは過去の遺物。曾祖母が実際に着ているところは見たことがなく、もう日常的には着なくなったけれど、処分できずに置いてあったのだと思う。

(そのおかげで、私の着物への入口が開いたので、感謝してもしきれない。)

浴衣は、当時も「夏祭りに着るもの」。

毎年7月16日頃と7月31日にあった地域の神社のお祭で、祖母が着せてくれたことをよく覚えている。

子ども用のひらひらふわふわした帯がかわいくて、嬉しくて。大はしゃぎしていたことが懐かしい。

最後に着せてもらったのは、高校2年生の時だった。

その時に着せてもらった母の浴衣は、今も私の手元にある。そういえば、母が着物を着ていたことはないけれど、浴衣は何度か着ていた気がする。

小学生の頃は周りの子どもたちはみんな浴衣を着ていたけれど、高校生の頃は、半分にもならなかった。

その5年ほどで浴衣を着る子どもが減ったのか、年齢が上がると着なくなっていくのかは分からないけれど。

いずれにせよ、今も30年ほど前も、着物(浴衣)の存在感は ほぼ同じように思う。

あくまで、私の記憶の中での比較だけれど。
ということは、子どもの記憶に残る着物(浴衣)は、夏祭りが、最後の砦?!

でも・・・それだけになってしまうのは、ちょっとさみしい。だからこそ、私は日常の中で着ていたい。

私が子どもたちに伝えたいのは「着物っていいよ!着てみなよ!」ではなくて、
着物が日常にある風景。その記憶。

それが、誰かの「着物への入口」になってもならなくても、心地よく映ったらいいなと思う。